Yさんは1月5日の夕方飛行機で東京へ帰って行きました。楽しい年末年始休暇が終わると、元の生活が戻って来ます。私は仕事、ノエルは1日中薄暗い男子行為室でひたすらステイの毎日です。1週間以上も、1日中べったりくっついて離れない日が続いたので、ノエルはすっかり甘えん坊になっていました。
(ちゃんとお行儀よく私を待っていてくれるだろうか?前みたいに鳴いたり回りのものをかじり壊したりしないだろうか?)
私はとても不安でした。わざわざ宮崎まで来て訓練をしてくださった指導員のTさんは帰る前におっしゃったのです。
「これでノエルがちゃんとステイできなかったとき、どんな風に躾けたらいいか分かったでしょ?しっかりやってください。」
言いつけを守らなければびしっと叱らなければならないことは私にだって分かっています。けれどもノエルがつい騒ぎを起こさずにいられなくなる気持ちもよく分かるのです。私が彼女にさせていることは犬の忍耐力の限界を越えているように思われました。まず主人から少し離れた場所で20分くらい待てるようにする。これができたら今度は主人の声や臭いが届かない所で練習し、徐々に時間を延ばして最終的には2時間くらい待てるようにする。それが、私が訓練中「卒業したらやるように」と言われたステイの躾け方でした。ところがノエルは宮崎に帰って来たとたんに、朝から夕方までじーっとしていなければならない生活を強いられたのです。知らない男の人たちが入れ替わり立ち替わりやってくる行為室で、来る日も来る日も・・・。ノエルを叱りつける度私の心はちくちくと痛みました。
しかし私の不安に反して、3学期に入ってからのノエルはとてもよい子でした。お出かけ大好きのノエルではありますが、それまで朝バス停に向かう道だけは足どりが重く私を困らせていたものです。でも今は違います。「行くよ」と言うとすばやく駆け寄って来ます。アパートの階段を3階から一気に下りて、元気よくバス停へと向かうのでした。ノエルの軽やかな足どりが、左手のハーネスを通して伝わって来ます。
「ノエルは大丈夫。今日も1日ちゃんと待っているからね。ママもがんばって!」
私はその規則正しいリズムに励まされるように、彼女の動きに合わせて歩いて行きました。丁度同じ頃私は職務上のトラブルでとても悩んでいたのです。
(私がノエルをなんとか励まそうとしてたはずなのに、いつのまにか私の方が慰められて、ノエルから元気をもらってる・・・)
気づいて私は苦笑してしまいました。
学校に着くとノエルはわき目もふらずまっすぐに歩いて、職員室を通り過ぎて、二つ向こうの行為室のドアにぴたりと顔をつけました。誉めながらドアを開けると、しっぽを緩やかにふりながら、すーっと自分の横たわるべき位置へ進んで、ハーネスをはずす私の手に身をまかせます。
「よい子になったねぇ、ノエちゃん!」
私はおもわず彼女を抱きしめてしまいました。
(ありがとう、ノエル!こんな所に閉じこめているのに・・・)
私は1・2時間に1度は必ずノエルに会いに行くことにしました。2学期まではそれが男子行為室ということもあってなかなか入い辛くて、用事のあるとき以外はいかないようにしていたのですが、考えてみれば、遠慮する必要はないのです。1日一緒に校内も歩きたいと言った私の願いを聞き入れずにこういうやり方を強要したのは学校側なのですから。
ドアを開けるとノエルは静かに顔を上げました。以前のように、暴れて足にチェーンが絡んでいたり、かじられた書類がそこら中にちらばっていたりすることは1どもありませんでした。私は何度も何度も彼女の頭や背中を撫でて、時間のゆるす限り一緒にいました。ノエルはうれしそうに耳を後ろに伏せて顔を私の手にすりよせます。しかし時間の許す限りとは言っても、そう何十分もそこにいられるわけはありません。すぐにまた「ステイ」を言わなければならないときが来ます。私はこの言葉を半分憎んでいるほどでした。
こんな暮らしの中で、ノエルは私に絶対の信頼を置くようになっていました。言葉で伝えきれない私の思いを、彼女は敏感に感じとってくれたのです。自分がこんなおちつかない部屋で寂しい思いをしている間、私も別の場所でいつもノエルのことを気にしているのだと、分かってくれたのでした。
(チャイムがなればすぐに会いにきて誉めてくれるんだ!)
そう信じてノエルは、校内放送用のスピーカーをときどき見上げながら、静かに伏せていました。
成人の日を過ぎた頃、改修中だった校舎の工事が終わりました。私の持ち場であるテープライブラリーを教室として使っていたクラスも元の部屋へ戻りました。ついにノエルが行為室住まいから解放される時が来たのです!校内を歩くことは引続きできませんが、この部屋には私は好きな時に行けるし、授業が入っていない時間なら1時間ずっとそこにいてもいいのです。
「さぁノエちゃん、お引っ越しだよ。」
私はノエルにリードをつけて左手で引き、右手にはハーネスやハウス用のマットなどをかかえて、テープ室の横へ通じる階段を駆け上がって行きました。
☆筆者より
今回の話は第9話に基づくもので、途中から読んでくださった方には少し分かりにくい点があったと思います。申し訳ありません。なお「テープライブラリー」とは、眼の不自由な人の為に本を朗読し、テープに録音したものを集めている図書館のような部屋です。私は、盲学校の職員で、公務分掌で図書係をやっています
※26話はありません