2016/09/09

ノエルの足跡29 工事現場で

 私の住んでいるアパートの近くの横断歩道の周辺で、突然大工事が始まりました。フェンスがはられ、点字ブロックがはぎ取られ、そのうち、車歩道の境を示している僅かな段差までが削り取られてしまいました。
 この横断歩道は、何差路と一口にいいあらわせないほど複雑な形をしています。工事などしていない普通の時でさえ、白杖を使って歩く視覚障害車には状況把握が難しく、できるなら避けて通りたい場所なのです。私自身ノエルに出会う前に、杖と僅かに残された視力を頼りに歩いていた頃にそこで怖い目に遭ったことは、以前にもかいた通りです。でもノエルが来てからというもの、毎日そこを通時に感じていた緊張感はまったくなくなっていました。行きたい方向さえ伝えておけばノエルは確実に、そして安全に誘導してくれるからです。
 だから横断歩道がいきなり工事現場と化してしまっても私は少しもあわてませんでした。当然ながらフェンスのはり方や掘り返された道路の常態は日毎に変わるのですが、それでも私は
 (大丈夫。ノエルならちゃんと歩いてくれる!)
 と、完全にノエルを信頼しきっていたのです。
 その朝も、私が横断歩道の始まる地点に立って「ゴー」と命令すると、ノエルは足を踏み出しました。。道のでこぼこを避けて、車の来ないのを確かめて、すいすい渡って行きます。
 「グッド!今日も上手だ。」
 交差展の中央部は、一反島のようになった歩道になっていて、私たちはそこを越えてさらに直進するつもりでした。ところがそこまで来てびっくり。今日はどうやらその島の部分が一面工事スポットになっているようなのです。
 ノエルは何とかして通路をみつけようと、右へ左へ歩き回りました。彼女の動きにまかせてついて行くうちに、私は自分がどっちを向いているのか分からなくなってしまいました。眼のよく見える人は、ある程度離れた所にある目標物からでも自分の一や向いている方向を判断することができますが、私にはできません。
だだっぴろい交差点のど真ん中では、車の流れも、私の眼で僅かに見える建物の陰も、まったく情報を得る手がかりとはなりませんでした。工事は通勤ラッシュが過ぎる頃からしか始まらないらしく、そこには誰もいませんでした。
 (交番だってあるのに、お巡りさんも見てないのね。)
 絶望的な気持ちになっていると、ふいにノエルが島の中を歩き回るのを止めて道路を横切り始めました。でもバス停に向かう道でないことは私にも分かりました。
 ノエルが立ち止まって鼻の先で指し示した歩道脇の看板に触れて私は感動で震えました。それはよく見慣れた病院の看板でした。私のアパートの1回はアパートとは持ち主の違う病院の受付になっているのです。
 「ノエちゃん、おうちへつれて来てくれたの?」
 私がはっきりと認識できる手がかりを求めていたことをノエルは知っていたのでしょうか?この看板を見せれば私がまた方向を確認することができると思いついたのでしょうか?熱いものがじーんとこみ上げました。いつものバスにはとうてい間に合わないけれど、もう一度初めからチャレンジする勇気がわいて来ました。
 「ノエル一人に道を探させてごめんね。今度は一緒に歩くからね。もう1度行おうよ。」
 私は少し遅刻することを学校に連絡すると、再び横断歩道へ向かって歩き始めました。
 そうは言うものの今度あの島の部分をクリアできる確信はありません。ノエルは行く手を阻むフェンスの前でまたもやうろうろし始めました。今度は私も方向だけは見失わないように、車の流れと音響信号のかっこうの声に注意しながら言いました。
 「バスに乗るんだよ。バス、バス。」
 バス停はまだ100メートルほども先なのですが、私はそれ以外に方向を指示する命令語を思いつきませんでした。ノエルはひっしで通路を探しています。捜し物の苦手なノエルには、突然出現した障害物の間の細い通路をみつける作業が難しいことは、私にもよく分かっていました。でも私には公事現場がどんな風になっているか、まったく分からないのです。「一緒に探そう」と言ってはみたものの、通路の位置を示すヒントとなる指示さえ与えてやれない自分がもどかしくてたまりません。ついにノエルは歩くのをやめて
 「わかんない!ごめんなさい・・・」
 とでも言うようにうなだれ、地面に伏せてしまいました。自分もへたりこんでしまいたい衝動を押さえて私は言いました。
 「だめ、行くの。歩くの。」
 それから静かに「スィット(座れ」と命令し、しばらくそのくじけた心をなだめる為に背中を撫でていました。
 次に私がしたことは、後から考えると不思議でならないのですが、この時は私もひっしだったのです。
 「ねぇ、よく見て!がんばって!ノエちゃんにならできるから。絶対できるから。」
 犬に通じるはずのないこんな言葉を、私は夢中でノエルにかけていたのです。
心を込めて。
 奇跡が起こりました。頭を垂れたまま私の言葉を聞いていたノエルが急にシャキッと顔を挙げたのです。私もあわてて立ち上がりハーネスを握りました。
 「ごー」
 まっすぐ前を見つめ、迷う風もなく、ノエルは歩き始めました。私を気遣いながらフェンスの脇をすり抜けて。
 ノエルが立ち止まったので様子をうかがうと、そこは交差点を渡り終えて歩道に上がった所のコーナーでした。
 「偉い!偉いよ。やっぱりできたんだね。ノエルはすごいよ!」
 うれしさのあまり私はノエルに抱きついてしまいました。ノエルも飛び上がって喜びました。私たちはこの日、二人で一つの壁を越えたのです。再びバス停へ向かって歩きだした私たちの後ろ姿をそっと見送ってくれた費とがいようとは、この時は思ってもみませんでしたけれど。
ノエルの足跡30 未知の人に支えられて
ノエルの足跡とは

ヒトミ

著者:ヒトミ

東京在住。犬のいない生活なんて考えられない!犬中心の毎日を送っています。趣味はアジリティー(ドッグスポーツ)と写真。

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